昭和56年8月23日 月例祭における御理解  【入力者:岡村和一郎】


 いよいよ25日は、あー合楽祭りでございます。うーん、信心の道とは、うーん、かけ離れた感じがせんでもない。信者一同が集まって、まあそれこそ浴衣がけで集まって、そして皆で、えー、最後は、なははっー何ですか、合楽音頭で、あのー終わろうというのですから、それぞれのいろんな芸などを披露し合うわけです。
 毎年、えーやはり、こう好き不好きというものがありましてね、もうあげなことはもう、(ふるふる?)好かん、歌は歌うたり、踊りを踊ったり、あーあげなもんな気持ちが分からんという人がやっぱりありますもんね。見るとはよかばってん、もう自分で踊らにゃんてなんて、もう御免被るという人がありますけれども、すぅーっ、この信心の道、例えば合楽にご縁を頂いて、合楽でおかげを頂こうとする人は、やっぱり、ね、私の信心を頂いて下さるということになります。私が教祖金光大神の信心を頂いていく。その信心(※机ドンドンされる)によって、人が助かるようになり、たくさん集まるようになり、いうならば、私の信心を頂いて下さることになる。
 「はああ、合楽に参るなら踊り踊らにゃんけんで参らん」という人は、やっぱ参らんかもしれません。ね。ところがね、やっぱ私が若い時に、ああいうこと、遊芸が大変好きでございましたから、あああ、やっぱし、こう華やかになります。ね。
 ですから、嫌いな人でもやっぱりそれに好きになるということが(※机2回トントン)、私は傾倒することだと思うんです。信心はね、いうならば合楽に傾倒する、一辺倒です。そこから、はいり、私はそれはいつも思うんですけれども、今晩もあのー臼杵の、高橋さん達ご夫婦がお参りになっておりますが、最近毎朝、電話がかかってくるんですけれども、ご祈念中にいろいろとお知らせを頂く。ね。
 (もう?)しかもそれがもう素晴らしい御理解なんです。で、今朝(←※「今朝」は言い間違い)、今晩も参って見えましたから、有り難いことですなあ。もうほんとに神様にお知らせを頂くなんて、それこそお道の教師を何十年しとっても、神様の、いうなら不平一つ、心の眼、心眼で見せてもらうといったようなことのないで終わって、そげなことなかと言うて、だから言うような人すらあるのに、まだ合楽にご縁を頂かれて長いないのに、いよいよ神様からお知らせを頂いて、有り難いことですな。

 今は、そして御理解を頂かれるわけですけども、もうだんだん信心が進んでまいりますとね、今度は自分がお伺いしたことに対して、神様が一々ご返事を下さるようになりますよ。「しっかり頑張んなさらなにゃ」というて、まあ申しましたことですけれども、その、(傾倒?)、もう合楽でなからなきゃならん、もう私が助かるところは、合楽より他にはない。その傾倒が、誰よりも強いんだと、私は思うです。はい。そういう方達ですね、いろいろと、いうならば、合楽の信心を、こう、うーん、頂いていかれる。ね。
 それは、あー、ここの修行生の方達が、いつも私が感心しますけれども、私があの歌舞伎芝居が好きだというので、まあ歌舞伎芝居のような、あの(所作もん?)なんかのね、もうそれはとてもふつうから言うたらもう、そんなことができるはずはないような、あの出し物を出されて、そして、まあそれはもうほんとに滑稽、まあ何々ということでございますけれども、やっぱちょっと(でけるん?)です。もう感心、もー感心してしまってます。うん。
 ところがやっぱ嫌いな人は、もうあげなことは嫌という人もありますけれどもね、やはりここでは、もう亡くなりました久富一郎先生とかね、ならここの久富繁雄さんなんかというのは、ああいうことは(古々)歌も歌いなさらんという感じの人ですけれども、合楽祭りの時だけは、いつもね、(さっと?)浴衣を、(?)後ろには、あの、こう団扇でもたして、そしてやっぱり必死にこうやって踊っておられる。ね。

 傾倒、だからね、合楽の信心を頂こうとするならば、なら良しも悪しも、こうやって頂こう、合楽の流儀なら、その流儀をそのまま頂こう。ね。よかとこだけ頂こうというのでは、傾倒したということにならん。良いも悪いも、(一応?)を頂こうと。嫌いだけれども好きになるけいこをさしてもらおうと。
 そして、んなら、いよいよ好かんのならば、自分が体得してしもうてから、なら好かんところ、気分に合わんとこは、こうやって後から外したらいいのです。いちおはやはり、合楽の、いうならば、親先生好みにならなければ、ああ、傾倒したということにならんのじゃないでしょうかね。ね。
 私が、どういうような、んなら信心を、どういう信心の道を私が歩かせて頂いておるか。一緒に歩かせて頂くということなのです。ね。
 そして、私と同じような、まあおかげを頂いて下さって、日々を喜びいっぱいで生活さしてもらい、はあ、これがご神徳というものかと、自分で実感させて頂きながら、このご神徳を、あの世までも持って行くのならば、こりゃ、あの世も大して、えーー、(ねっ?)、嫌な所、困った所じゃないんだと。ね。いうならば、まあ信心の最大の願いであるところの、そうした死生観、死生の安心までも、だんだん生まれてくるというのが信心です。ね。

 信心ち言や、拝むこととか頼むこととか。ね。ただご利益を受けるという。今朝からの御理解じゃないけれども、ね。「人が泥棒だと言うても、乞食だと言うても、人の物を盗らなければ泥棒じゃない、もろうて歩かなきゃ乞食じゃない。神がちゃんと見ておる」。ねえ。「しっかり信心の帯をせよ」とこう。ね。
 そういう時にです、例えば、私どもが、「俺がいつ泥棒したか、いつ乞食をしたか」というて、向きになって腹を立てたら、もう既におかげが受けられない(?)状態になってしまう。ね。
 というてまた、あー場合には、あー、ね、ほんとに、はあ自分こそ、まあこれは、あーうーん、ね、神様に「どうぞおかげを下さい、下さい」ばっかり言うと、これは乞食根性だと私は思うですね。ね。
 どうぞ、どういう願いでも、さしてもらわにゃならん、願わずには実はおられんのであるから、願わにゃおられんけれども、ね、願うからには、その(※机ドンドン)おかげの受け物も作らせて頂くという願いをせにゃいけん。

 百斤のものを持ちたいと思うなら、百斤の物を優に持てれる力を、まずは頂かなければ、なら「これ持っていけよ」とおかげを出されても、それを持ちきらなかったら、持っていくことできんでしょう。ね。
 今朝から、あー、そのご祈念の後に、でしたが、吉井の熊谷さんが今朝方から、まあご神夢を頂いたと、こう言われる、(おいのり?)。(そら?)的確に頂かれます。そのお夢が、ならどういう道かというと、これが人道だと。人の道ですね。これが人道だと、(大きい?)道がある。
 ところが、その人道だという道に、もうそれこそ道いっぱいのごたる大きな、いうなら豚がね、こうやってまかり通っておる。だから歩こうと思うけれども、豚がはばかっとるから歩かれない、というお知らせであった。
 人道地に落ちたな。いや、人道地に落ちたということが今さらいうわけでもないでしょうけれども、まあ、人道地に落ちたと、皆さん思うてみて下さい。人道を豚がまかり通っておる。ね。
 人間のいやしさ、汚さ、いうなら我情我欲のいっぱいの人達が、この人道を通っておるから、信心を頂く、頂いて、信心で通っていこうという人が通りにくいなってしまっとる。それが、今の言えば人の道であろうと、こう思う。
 人の道があるけん嫌んなった。汚い豚が道いっぱいになって歩いておる。ね。そこを通ろうとするから、もう信心のないやつばっかりだというて、いつも腹を立てたり、えーまあ、あーさみしい思いをしたりしなければならない。ね。
 だから、人の道でなくて、私は信心させて頂く者は、どこまでもね、えー、神の道でなからなければいけないと思う。

 これは、お道の信心の、まあ特異性というでしょうね。えー、私どもが願う教祖金光大神の言葉の中にもあるように、此方のことを生神、生神というが、此方ばかりが生神でない。皆もその通りのおかげが受けられる」と教えておられる。ね。
 お互い、いうならば、あー、生まれる時にもう既に、生神の芽というものを頂いておる。それは、例えば、(なり?)果物でも同じ.柿の種なら柿の種を真っ二つに、こう割ってごらんなさい。もう既に、中にこうやって芽が恵んでるでしょう。ね。
 だから、それを、んなら、そのままここに置いとったんでは、(芽起き?)はしません。やぱり、適当な、あー、温度、あーその太陽のお恵みを頂いたり、水の恵みを頂いたり、いうならば、土(どろ)に育まれて、それが芽を切ることになり、それが枝にも、いうなら花にも、実りにもなっていくわけです。
 私どもが生神の芽というものは、もう生まれる時に既に頂いておるんだと。ね。それを、んならば、合楽で言われる「人間は土より出でて、土に還るのだ」。ね。だから、その道中とても、土の信心、土の生き方を学ばせてもらい、土の生き方でいくということが、一番道理に合った生き方なのだと。
 教祖金光大神は、そういう道を歩かれた。人間は土から出でて土に還るのだ。その道中は、我情我欲でいっぱいで、えー、その(通れ?)というてはない。ね、土の心でいけ。ね。初めて、そこにいうならば柿の種が、その土の恵みによって芽を切って、そして花を咲かせて実が実るというお徳が受けられる。ね。

 ですから、もう金光大神の道はどこまでもね、その生神を目指すということなんです。(で?)そげなもん、生神様やら(にゃ?)ならんでんよかじゃなくてね、もう、これは生涯かけて、いや生涯じゃない、あの世ででも、やはりその生神を目指して、その精進を目指していこうということなのです。
 生神とは、我とわが心が拝めれる心。その心が四六時中いつも、自分の心が拝めれるような心を育てていこうというのである。合楽で言われる「黙って治める」「土の心で」とこう言われる、もうこういう実験をしていくならば、もう必ずや実証が生まれてくる。
 黙って治めるということの素晴らしいことを分かってくる。「ここだけは言うとかなん」、ここだけは、いうなら、「泥棒と言うたな、乞食だと言うたな。俺がいつ泥棒したか、乞食をしたか」というふうに向きになったら、土の心じゃないのです。ね。
 それこそ、信心させてもらい、心が育ったならばです、いうならば子供と大人の差。「信心のある者とない者は、親のある子とない子ほどの違い」と仰せられるのですから、その、お育てを頂いて、自分の心が、いうなら子供から馬鹿と言われても腹が立たないように。へへ。次元が違う。ね。そういう世界に住むということなんです、信心とは。ね。

 だから、最近合楽で言われる、だんだん信心させて頂いて(です?)、人間が人間らしゅう生きていくという生き方。今だかつて、過去の数千年、うーん、続いたと言われるいろんな宗教があります、大宗教が。けれどもね、それはね、人間が人間らしゅう生きられないように説いてある。もちろんわが道を説かない宗教はないですから、わが道を説きますけども、和道が十全ではないということなのである。
 それは食べてはならん、これは飲んじゃならん、こうしちゃならんというような、いうなら戒律的な、厳しい決まりがあって、なかなか信心もできない。金光大神の道はそうじゃない。人間が人間らしゅ~う生きて、いうならば、人の道はもう、人間、いわゆる我情我欲のものでいっぱい通ってるから、もう一段高い信心の世界。それは、私どもが生神を目指しての、神、生神への道であり、精進であり、ね。そこにあるものは何かというと、和賀心の道である。
 自分の心が、嫌が上にも和らぎ賀ぶ心が育っていこうというのである。ね。まあだ、子供がタバコを飲んだり、酒を飲んだりしたら、やかましくいう。いや、法に触れることにすらなってくる。けれども、大人が酒を飲んだり、タバコを飲んだりすることが、いわば、あー、それを咎める者はいないように、ね、飲みすぎて体を壊すようなことはいけません。大酒大食は絶食のもと。適当に適量に、することも飲むことも食べることも、ね。それこそ御の字を付けて頂きますという心が大人になってまいりますから、人間頂けるのです。そこに初めて、人間が人間らしゅう生きる手立てというものが、合楽理念で説かれるわけ。ね。
 だから、合楽理念の実験実証者ということは、いうならば、もう人の道ではなくて、神の道を歩くように、しかも手立てがね、その気になれば誰でも通れれるように説いてある。

 一週間ばっかり前に、ある婦人が参って来た。ちょうど上野先生がお取次ぎさしてもらった。もうそれこそ、助けて下さい(の?)。もう家ん中はもうとにかく、娘が(よめったよめった?)先のところ、もうそれこそ、その娘が、あのー切(り?)物、それこそ出刃包丁振り回さんならんような事件が起きてきた。次から次へと問題が問題を生んでいくという、もうどうにもこうにもしようのない、手がつけられん。私も後から聞いて、もうそげんとば、今助けてくれて言うたっちゃ助けられるもんかいのや、(やった?)というて、まあ(  ?  )話したことでした。
 明くる日、また参って来た。そん時私会ったんですけれども、ね、だからこのことだけは実行しなさいよ。そういう気になるとね、神様が働きを下さるですよと。3日目に参って行った時にはもうニコニコで参って見えた。4日目には、もう人相が変わってしもうたごたるあるというて、まあ(  ?  )と話したことでした。
 毎朝参って来ます。もう朝3時には目が覚める。まあこっから(3、4里?)田舎の山ん中から参って来るんですけどね。今日参ってみて、もうとにかく、もううその素晴らしいんですよね。そのおかげが、その変わってきたんです。もう手が付けれられんと思うておったのが、まあそこもニコニコ、ここもニコニコというような働きが起こってきたんです。

 今日はこんなことを(お届け?)してもいいでしょうかというて、言われるのが、どういうことかというと、娘が嫁行ってる先、いわゆる家風が違うわけです。今何ですか、どこも素麺を頂くわけだけどもね、そこのうちは、(きじょう入れて?)食べなさるげなたい、素麺を。
 ところが、こちらの、あーその、うちはやっぱり(大事だもとって?)、まあおいしゅう頂くという、にね、家風が違う。それで向こうの姑親になる方が、嫁御さんに、ね、「ここに来てもろうたなら、ここの家風に合わせちもらわにゃでけん。あんたも(きじょうゆ?)で食べ習わんの」ち言いなさるばってん、どげん思うたっちゃ、好きな素麺が喉を越さん。
 昨日帰って参りまして、そのことを申しますから、私は「っそんならもう、うちでゆっくり、あの、素麺ば、なら湯がいてやるけん」ち、(  ?  )材料どん取ってから、あー、食べさせて帰しましたが、「親先生、こげな場合はどげなふうにしたら( ? )ございましょうか」ちいって言うんです。うん。
 それで私が、「あんたが人間を、人間心を使いなさんな」ち。ね。「娘さんにそげん言われるならば、んなら一遍あんたがひもじーか思いばしてみらんの。もう醤油でんつけられて食べられるんならもう、もったいない」。ね、「さあそれに、あんたが親心でもあろう、人間じゃろうけども人情でです、んなら素麺ば湯がいて、おいしゅう出汁を取って、さあ腹いっぱい食べて帰らんの」とこう(いうと?)。ね。
 それではいつまでとっても、両家の問題は、そういう一時が万事、それじゃ(   ?   )。ね。だから、今度娘が素麺食べに来たならば、もう絶対食べさせどんしなさんなち(笑)。(ひとかたきふたか?)時は食べんでええけん、そして素麺の時、食べてなさい。(きじょうゆ?)で食べたっちゃ、「かああ、こげんおいしかもんじゃろうか」というごとなっていく、(きじょうゆ?)で食べるとが好きになる。

 「はああ、もう今日はよかこつば聞かせてもらいました。そげなこつが全然分かりませんでした」と言うて、今日は帰られました。ね。手立てがあるんです。ね。いわゆる人情じゃいかん、神情でお道の信心はそれこそ、ね、「人力に見切りをつけて神力にすがれ。人力自ずから湧く」という。そこに神の道を感じます。ね。
 「信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ」と、教祖が教えておられますけれども、どういう信心の道を、お互い子にも孫にも伝えようとしておるのだろうか。(※お茶をすすられる)(こーりゃ?)もう合楽に参ってなさい、どうかある時にはもうすぐにご神米、お神酒さんでおかげ頂くがよい。
 どげな問題があっても、親先生お届させて(もろうときゃ?)、それこそ(すきぐりで?)すいたように解決するんばい。神様ちゃあらたかなもんばい、だけでは私は信心の道じゃないと思うですね。おかげの道である。ね。
 どこまでも、信心の道、信心の道は真心の道とあります。ね。んなら真心とは。普通一般に言いますよね。真心さえありゃ、それこそ神様は祈らんでも守って下さるだろうといったような、こん、こげな横柄な、横着な表現はないです。
 信心ばかりは信心をしなければ分かりません。(いえば?)、どんなに真が篤いという人であっても、自分の真は教えに照らしたら、間違っておったことに気がつきます。なら、真なら真のおかげが(いいだけよう?)けれども、真のおかげが伴わない。私は、信心はね、真に、真の信心になったら、真のおかげが伴わなければ真じゃないと思う。ね。その真を、いえば、合楽理念は追求していってます。ね。

 (今の?)娘、その話。「はああ、そんならもう家で、おいしい素麺ば食べさせる」。それが、いかにも親が子に対する真心のように思うておるけども、それじゃいつまで経っても娘はおかげになってこない。ね。
 ね、そこに真の道というのは、いうなら一旦貸した以上は、その嫁行った先の家風に合うていくようなあり方を、教えていかなければならない。それが真の道である。ね。その時、その事柄、事柄に(応じて?)です、合楽理念は、もう縦横無尽に説くわけです。
 (みな?)、それこそ今日の、(その場に数えよる?)、はああ、もうこげなことは初めち聞いたというようなね、生き方を身につけて信心のけいこをさして頂く。「ここは土の心で」と教えられたならば、本気で土の心にならせて頂くけいこをさせてもらうところからです、ね、生神の芽は出てくるのである。その生神の芽が、だんだん成長、育ってきて、ね、生神の実りともなる、いうならば、あー、目指し、目当てがでけてくるわけです。ね。
 信心の道ということを、ただ、拝むこと、参ることということだけではなくてです、ね、合楽理念に基づいた信心の、いわゆる真の道をね、一言一言体得さしてもらって、それを伝えていく。これならば伝えていくという、気張らんでも、子にも孫にも伝わっていかんはずはないです。ね。

 今日は、昨日から、あー筑水の青年会の方達が、30名余り、ここで信心研修を致しました。終わって私と話を聞くというので、ここでお話をさして頂いたんですけれども。へぇ、嫁姑の悪きは、「嫁姑の仲悪きは天地に響く」と教祖が教えておられます。「嫁姑の仲悪きは天地に響く」と。ね。
 神様が「嫌だなあ~」と思われるようなことは、もう天地に響くのです。ですから、その反対のことは、どういうことになるかというと、また、それも天地に響くと思うんです。嫁姑がただ、表面だけではない、心から、いうなら仲良うなっていくという。天地に響くかんはずがない。ね。
 今、大城の方から毎朝、お義母さんと2人で参って来るお嫁さんがあります。(ああ?)、なかなか、もーう教えに取り組んで、日々、いわゆる実験実証を現していっておる。その様子を見られた姑親の、いわゆるお義母さんがね、「あんたが参りよるところに、私も一遍連れて参ってくれんの」とこういう。「んなら一緒にお参りしましょう」というて、もうここ何カ月か、あの、親子で参って見える。ね。
 もう(しんく?)から、いうならば、こう信心で仲良うしてお出でられる。これが、なら天地に通わないはずはない。「天地に響く」というほどしの心は、もちろん、腹立ちとか恨みとか、恨みつらみといったようなものは、天地に響くです。だから、おかげにならん。 それの反対の、「有り難い」とか「もったいない」という心が、「真に有り難しという心、すぐにみかげのはじめ」と(おっしゃる?)。

 うん、私の母は、私が子供ん時に、あの、こう、あ、タニシを取りに行きます。取って来ても、母が絶対「タニシだけは煮てやらん」ち言いました。タニシをグツグツグツグツいうてね、あの、音を立てて煮える時のあれは、もう(3万億土?)までも聞こえるようなと。だから、「あんた(ら?)いくら取って来てやったっちゃ、タニシだけは煮てやらんばい」ちいって、母が言いよりましたがね。
 いわばタニシの苦しむグツグツいうのが、いわゆる(3万億土?)までも響くと、こういう。ね。いうならば、これは嫁御と、しゅう、あ、姑と嫁だけのことではありません。夫婦仲悪きは天地にも響きましょう。ね。兄弟仲悪きもやっぱり響くでしょう。ね。それこそタニシが煮える音ですらも、天地に響くというのだから。
 だから、まあ響かなければならんのは、有り難い、真に有り難いというお心は、すぐはみかげの始めとおっしゃる、真に有り難いというのが天地に響くから、すぐのおかげとなって頂かれてくるのです。その真に有り難くならせて頂くけいこを、なら今朝からの御理解じゃないけれども、例えば泥棒だと、こりゃまあ極端な表現ですね。「泥棒」とか「乞食」とかという言葉が、教祖使っておられますけれども、それこそ馬鹿と言われても、阿呆と言われても、うーその、それをね、土の心で受けていくという楽しみが生まれてくる。
 黙って治めてる、黙って受けるということは、次に答えが出てくるのである。ようやく4、5日しか朝参りしたことのない今日のその婦人が、「もうこういう有り難い話を聞いたことがなかった」と。それをまた実行すると、こんなにもおかげになってい(くorる?)、というその様子を感じながら、今、毎、朝参りをしておるので、(願います?)けれどもね。
 ね、ほんとに此方の信心は、心一つですべてを作っていくのですから、その心を一つをです、ね。それで、んなら、さあ、泥棒じゃなくても馬鹿と言われても、悪口を言われた時にです、ね、腹を立てんのではなくて、いや、もし腹が立ったりしたらです、ね、また人の悪口ば言わんならんような時にはね、自分が信心が抜けておる時。しん、ね、そういう時に、「しっかり信心の帯をせよ」と、こうおっしゃる。信心の帯が緩んでおる時と思うて、ね、人の悪口を言わねばおられない時には、自分の信心が間違っておる時。まtあ、人から悪口を言われて腹が立つようなことでは、まだ信心、いうなら次元の違った世界におる自分というものの自覚がなくなった時。子供が言うておるようにしか聞こえない、問題が問題にならない、いや問題がむしろおかげになっていくという生き方を、身に付けていくということがね、私は、信心の道だと思うんです。
 もう人道はこの頃歩かれなくなった。歩きよると、とにかく難しか。もう豚と一緒で、こうこうやって歩、そん、はぁ、ね、もう、あのー、おーんい、こちらまで汚れんならんような感じがするでしょうが。信心のいう、我情我欲の人達と一緒に歩いて行くということは難しい。だから少しは、いうなら次元の違った神の道をね、信心の道を歩かしてもらう。
 そこにはね、いうならば問題ではないことを、今まで問題にしておったことを後悔することになります。ね。しかも、この道は限りがない。ね。生神への、いわば精進なのですから。
 「信心の道を迷わず失わず、末の末まで教え伝えよ」という信心は、今日皆さんにまあ、ちょこっ、ちょこっとばかり聞いて頂いた。ね。そういう生き方、そういうあり方を、自分の生活の上に頂いていきよるならばです、それこそ今の、(吉田さんと言いますが?)、ね、嫁さんに「あんたが参りよる所に、私も連れてっ行ってくれんの」と。嫁さんが変っていくので、もうほんとに、もう、いわば、あー、ね、まあうらやましいように感じられたのではなかろうか。ね。
 それで、親子で、それこそ手に手を取っての毎日のお参りということになっている。もう有り難い、もう往き道も帰り道も、信心の話で、まあ帰らして頂くというておられますが。ね。そういう道を、私どもが歩かせて頂く限り、後に続く者も、やはりそういう道を、ね、自ずとついてくると、私は思うです。ついてこなければ、ばからしか。ね。
 または、付いて来なければならないような、神様がチャンスを与えて下さる。ね。それが、私どもが我情であり我欲であり、豚と一緒に歩きよるようなことでは、いつまで経っても、親父が金光様に参るとは参りよるばってん、ちゅうごたるふうになってくる。ね。 うちのおっかさんが、そーりゃ「金光様、金光様」ち、有り難(こって?)言いなさるばってん(から?)、と嫁御が(いわゆる?)おっかさんについちゃ来ん。ね。自分自身が、ほんとに有り難くならせてもらえる、いうならば、今日の御理解で申しますと、「人間は土より出でて土に還る」と言われるのだから、その道中とても、「土の生き方で、もういこう」と、もう信心はここに極まったというような頂き方を、貫かせて頂く限り、必ず、ね、芽が、ね、出る、花が咲く、身が実る、そういうおかげになってくると思うんです。

 まあいつもお話を聞いて下さって、私の信心というものが、大体こう分かられる。だから、ああ、あそこだけはじゃなくてから、私の信心のすべてをね、一遍こう頂いて下さる。ね。それが、私は、合楽に傾倒する、親先生に傾倒するということになるのじゃないでしょうか。だから、私が頂いておるようなものが、なら私が、お金にも不自由せん、物にも不自由、人間の幸せの条件をいっぱい足ろわせながら、日々の生活させて頂いておると、こう、まあ例えば、仮に致しますならです、そういうおかげが、なら皆さんの上にも、それこそ真善美に輝く世界に住むことがでけるというのである。ね。
 それには、やはり、合楽一色にならなきゃいけない。ね。ああもう、お祭りにはお参りするばってん、合楽祭りの踊ったり跳ねたりするとは、あげんとはもう、(見る?)ごともなかち、いうごたるこっちゃなくてね、そりゃ(見るごとない?)人もあるかもしれません。けれども、そこが修行と思うて、一つ25日は、もう浴衣がけで皆さんお出かけ下さい。そして、皆で総踊りができるようなね、心の状態を作って下さい。どうぞ。